クリスティン・プライス インタビュー

 ◆エサレンという場所

―――あなたの視点からエサレンという場所を説明して頂けますか?

 

エサレンはいろんなアイディアを持った面白い人たちが集まって情報を交換し、刺激しあう素晴らしい場所よ。エサレンは人間の潜在的可能性を探求する場所として、様々な新しい手法にそれを発展させ、学ぶことのできる場を提供してきたわ。アイダ・ロルフ(ロルフィングの創始者)も、フェルデンクライス(フェルデンクライス・メソッド)も、フリッツ・パールズ(ゲシュタルトセラピーの創始者)も、エサレンという場でその種を開花させ、人々に教え、発展させて、アメリカ全土に広げていったの。

 

創始者のマイケル・マーフィーとディック・プライスはエサレンを一つだけのプラクティスの場にしたくなかった。彼らは誰かひとりがエサレンの主導権を握らないように注意していたわ。様々なアプローチの先生がいるから、時に「私の方法が正しい。そっちは間違っている。」なんてばからしい口論が起こることもあるけど、私はそういう論争の起こる環境であることが、ある意味とても健全なんだと思う。ここにはあらゆる方法論があって、カオスで、はちゃめちゃだけど、だからこそ、私はエサレンを信頼しているの。

 

伝統的なスピリチュアルな師は、「完璧なマスター」という感じで表現されるけれど、エサレンには不完全な先生しかいないわ(笑)。私も不完全な先生から学んできたし、私はそのことも信頼しているの。現実的でそれは真実だから。先生にもたくさんの改善の余地があるってことよ(笑)。

 

そしてエサレンがオリジナルに生み出したものもあるわね。エサレン®ボディワークのような、体の喜び、そして愛を感じるためのゆったりとした、優しいタッチ・・。こんなアプローチのマッサージはそのころ他にはなかった。

 

◆生い立ち、そしてゲシュタルトとの出会い

 

私は生まれつき、人そのものと、人との関係というものにとても興味を持ってた。目の前の人に何が起きているのかとても知りたかったし、私自身がとても感情を強く感じる人間だったので、それをどう扱えばいいか知りたかった。ただそれを押し殺すのではなく、この感情を人にも自分にも役立つように使える道を探していたの。

 

私が生まれたとき、父がひどいアルコール中毒だったことも確かに大きいと思う。私は小さいころから、人を助けたいと思っていたのよ。

 

今でもよく覚えているわ。9歳のとき、ニュース雑誌で黒人の教会が白人により放火された記事をみたの。私はその子供の焼死体の写真を見て、この殺された少女は私でもあり得たと思った。ただ一つの違いは私の肌が白いというだけ。私はその殺された子供の立場になって感じていたわ。「こんなことは絶対に間違ってる!」と強く認識したの。ゲシュタルトのワークで行われる、「相手の立場になって感じ、何が起きているのかを理解する」ということは、私の中にすでにあったのよ。

 

だから、ゲシュタルトのワークを知ったとき、私はあるで心の故郷に帰ったように感じたわ。初めてフリッツ・パールズの理論とワークの実際を綴った本を読んだとき、理由も分からずただただ涙が止まらなくなってしまったの。

 

そして初めて受けたゲシュタルトのワークがディックのものだったことはとてもラッキーだった。彼は非常に信頼できる人だったの。私が心の故郷に帰ったように感じられたのは、ディックのワークだったからだと思う。他の人のゲシュタルトだったら逃げ帰っていたかもしれない(笑)。

彼のワークはとても平等だった。医者が「私が誰で、何者であるか」を決めつけてくるようなアプローチに対しては、私アレルギーがあるのよ(笑)。誰かが私に対してパワーを使うような雰囲気には耐えられないの。ゲシュタルトのワークをする人の中にもそういったパワーを使う人もいるけど、ディックは決してそうじゃなかった。

 

最初のゲシュタルトのワークのリーダーと結婚した私にとっては、エサレンはディックであり、ゲシュタルトもディックだった。そしてそれからしばらくの私の人生のすべては、この場所で、この手法を、ディックから学ぶことだった。

 

◆ディックの体験から生まれたアプローチ

 

ディックはフリッツ・パールズの生徒だったけれど、私が彼に会ったときにはすでに、彼なりにフリッツのゲシュタルトをアレンジしてたわ。

 

彼は精神病的な症状に苦しめられた時期があって、病院で電気ショックや様々な非人道的な療法を受けて入院していたことがあるの。それらの行為は彼にとって助けになるどころか、とても破壊的だった。彼はその時に彼を人間として見ずに、症例としてしか見てくれないたくさんの横柄さに出会ったわ。その経験が彼に大きな影響を与えたの。

 

彼はもともと仏教の研究をしていて、仏教の教えの「非暴力」を「強制しないこと」と理解して、彼のワークに取り入れてた。エサレンのようなところでは、心をさらけださないといけないというような風潮になってしまうことがあるけれど、そんな強引なアプローチには私は優しさが欠けてると思う。何でもオープンにすることが誰にとってもいいとは思わないし、人の心を開かせたがるのは自分自身を感じたくないから、ということもあるわ。

 

ディックのワークは非強制的であると同時に、とても身体的だった。彼は呼吸に意識を向ける仏教のヴィパッサナ瞑想も学んでいて、これも取り入れていたの。彼はワークの中で瞑想的に内側を静かに探求することを促し、また声や音を出したり体を激しく動かして、今まで表現できなかったものを外に出すことも奨励してた。

 

◆ゲシュタルト・アウェアネス・プラクティスの実際

 

ディックはフリッツと違って、これはセラピーじゃなく(ディックも私もセラピストではないし)、これはプラクティス(実践を深めること)なんだと強調していたわ。呼吸に意識を向けること、自分が何を感じているかに常に気づいていることがゲシュタルトの基本にあるの。そして気づいているだけでなく、いくらかでもそれを言葉で説明することを練習していくのよ。

 

小さなグループになってワークをするときは、探求者とサポーターの立場を順番に交代していき、生徒どうしで互いに立場を変えて実践していく。そこに患者と医者というような医学的モデルはないの。「あなたがあなた自身についてのエキスパートで専門家です」、「あなたが発見する人その人です」、「あなたにとって何が真実なのか教えて下さい」そういうスタンス。あなたが走り回っていれば「あなたは今走りたい気持ちなの?」と聞くけれども、決して「あなたはこうである」と決めつけたりしないわ。

 

そしてリーダーの役割とは、このゲシュタルトという道具の使い方を説明すること。そして、困難なときにも、呼吸に戻ることを何度でも、何度でも思い出させてあげること。また、これはとても大切なことだけど、その人がまだ自己受容できていないときでもその人を受け入れること。そのために、リーダーはそこにいるのだと思う。

 

みんなが見守る中、一人の人がリーダーと一緒に自分を探求していく「オープンシート」と呼ばれるワークでは、リーダーはリードするわけではなく、本人から出てくるものに寄り添ってついていく。もしその人が動き出したら、その動きが起こるに任せるように励ましてね。

 

ほとんどの時、人はただ「招待」を必要としているわ。何を感じても表現してもいいのだという「許可」を。たとえば、私が彼らの胸に手をあてて、体に「許可」をあげることができる。それは指示でも、要求でも、期待でもない。「招待」なの。そして忘れてならないのは、あなたはそれを受けることもできるし断ることもできるということ。

 

私は一人の人が探求しているときに、周りの人が見守っていることの価値もとても大きいと思う。見守ることは、そこでその人にライトを当てること。私とあなたのライトを持ち寄って見ればもっとよく物事が見えるはず。だからたくさんの人が見守ることで、そこにより多くのライトが当てられるの。

 

―――それは批判や非難を手放して見守るということですか?

 

その通り!!見守る人はオープンでないといけないわ。その人が内側から出てこられるようにたくさんのスペースを与えてあげるのよ。最初から「あなたはきっとこういう人だろう」と決めてかかったら、そこにスペースはないわ。真空のスペースにはなんでも引っ張られるようにどんどん流れ込んでくるでしょう。そういう空っぽな存在でいてあげれば、相手は自然と自分を表に出しやすくなる。

 

そして判断しない。期待しない。予測しない。何が出てきても「いいですよ。その感覚と一緒にいましょう」と言ってあげること。

 

ディックは私が出会った中で一番怖れを知らない人だった。何がその人から出てこようが構わなかった。彼は生命というものをとにかく信頼していたのね。彼は「何でも出てきていいよ」という大きなスペースを持っていた。私はディックと違って、とても大きな怖れを内側に持っていたけど・・。でも、私は、ほんとーに、人と出会うのが好きなのよ!(笑)その好奇心は私の怖れよりも大きかった。そして長い時間をかけて、怖れずにオープンになれるようになっていったわ。

 

今回のワークの参加者の何人かが、到着したばかりなのになぜか泣いていたの。「クリスの存在を感じると、どうしてか分からないけど、なんか泣いてしまう」と。それは「何を感じても、表現してもいいよ」という私の存在が醸し出す「許可」を感じたのだと思う。

 

私のワークでは、気づきに注意を払うことをみんなに期待しているけど、気づいたかどうか、気づきをどれくらい言うか、何を見せるかはすべてあなた次第よ。だけど、気づきたくないのに私のワークに参加するのは馬鹿げてるわね。もちろん、参加して、自分がどれほど気づきたくないのかに気づいてくれればオーケーよ(笑)。その「感じたくない」「気づきたくない」という抵抗感を一緒に探求できるわ。

 

◆自分以外のものになろうとすることを止める

 

フリッツはこんなことを言っているの、「自分でないものになろうとすること、自分自身になろうとしないこと。それを今では自己成長と呼ぶ」と(笑)。

 

あまりに多くの人が今の自分ではなくて別の自分にならなきゃいけないと思っているから、私のワークで「このままの自分でいいんだ」と知ってとても安心するの。

 

怖れや葛藤があってもいい。ただ、少しだけ、それを見てみましょう。そして少しでもいいからそれについて話してみて。そうすれば私たちはあなたと共にいられるから。

 

人々は誰かが言っていたような人物になろうとしている。お互いに、相手がどうあるべきかあれこれ言い合うのはもうやめるのよ。人や自分に対する「~であるべき」を全て手放して、ここに座ってただ「私」を感じるの。そこからどこに行こうとも変わろうともせずに、「これが私。うん、そう、ここに私がいる」それを味わう。ただそれだけ。

 

もしかしたら、この後、あなたは物事に対する自分の反応の仕方を変えるかもしれないけど、まずは”自分以外のものにならなきゃ列車”から降りて。そして「私」とはどんな感じなのか、ほんの一瞬ではなくて、じっくり、その感覚に耳を澄ませてみて・・。

 

なぜなら「私」とはただの小さなものではないから。ほとんどの人が言う「私」とは、その人の持つ自己像や性格や考えのことだけど、それらは大きな「私」のほんの一部よ。「私」はこの肉体であり、血であり、胸の鼓動であり、背骨であり、切なさや絶望の感覚であり・・・。そこにはとてもとても大きく多様な「私」があるの。そしてまた「私」という生命は他の生命、環境との関係においてのみ存在できる。私は、あなただけでなく、空気や水、大地、すべてのものと関係しているのよ。

 

「私」を探求していくと生命の流れに出会っていく。

「私」の意識を広げていくと、深いところでは私達はみな一つだと分かる。それはもうスピリチュアルな実践の世界になるわね。

 

―――そういった大きな感覚を持つクリスさんの存在感自体が、きっとあなたのワークを形作っているのですね。

 

ええ、私自身がその感覚を体現出来ていれば一番いいと思う。でも私の存在と私の与えるツールを混同してはいけないわ。なぜなら、参加者はツールを学び私から離れて自分の世界に帰らないといけないから。私がいなければならないようなツールでは役に立たないでしょう。

 

私をあなたの家まで連れて帰れないけれど、あなたの呼吸、あなたの優しさ、あなたの気づきは持って帰ることができる。私の中にあるものは全ての人のなかにもあると気づいてもらいたいの。そのためにツールを教えているのよ。

 

私に依存せずにここから巣立っていってくれることを切に願っているの。

 

―――ディックの人柄やこのワークの奥深さに魅了された、数時間にもおよぶ感動的なインタビューだった。エサレンらしい陽気さに溢れ、人生の悲嘆や苦しみの跡はみじんも感じさせないクリスだけれど、その全てを包むような大らかさや共感の深さが、彼女の人生を物語っているのかもしれない。

(聞き手/編集:舞原さなえ)

(Amu ニュースレターVol.12 記事より 2003年女神山ライフセンターにて)

 

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